他人の言葉に耳をふさげても、
自分の言葉にやられている人ってのは結構いる。
自分を含め人間の話を真に受けない
自分に騙されるな
自分を含む全ての人間のメッセージを信じない

「アイツ◯してやる!!」
という怒りの言葉が出たら
ほんとに? と自問する。

「こんなに大切にしていたのに…?」
そうか? と自問する。
自分で「こうだ」と思ったら、
それを思った自分を見る。そうか? と見る。
自分はなぜこのようなことを思うのだろう? 自分のメカニズム…仕組みを見る。
何かを思ったら、ササッと自問する。すぐにね。
言葉の危険性 言葉は記述伝達と同時に人間を動かす
人間は人間の言葉を飲み込んで行動しがち。
テレビゲーム的感覚でいうと、補助魔法かもしれない。意図して使うんだったらともかく、口からダラダラデタラメに唱えるんだから、たちが悪いよ。
文句を垂れるのが馬鹿らしくなったら、お気持ちよりも 是非利益を追求してみてほしい。文句を言わない事自体がものすごく楽しくなる。
文句言って何とかなるなら、まず私がわめいてやりますよ。誰よりも先に。
文句を言うところをショートカットして、サクサク処理して、誰よりも楽しようかな。どうですか。
「間違ってないのに! 正しいのに! おかしい! 価値がない!」
人間・人間の集団のリアルを見ていないと出てくる言葉。
そもそも人間は全然大したことがない
人間は全然全然全然全然全然全然正しくありませんが、正しい正しいとわめくクセがある
誰にでも間違いがあるから~なんて話ではないですよ。
だいたい日常的に正しくて少し間違いがある、という理解自体が実は破綻してる。
だいたいのことは正しくできるけれども間違いも犯すよね、というのはとんでもない誤解。
人間はまるっきりの誤解であっても行動し、困ったり困らなかったりしつつ前進している、その方がまだマシな理解でしょう。
こんなバグだらけのシステムで滅ばない人類はすごいなー と思いませんか?
正しく動くだのなんだので「デザインされて」出来上がったものではないのでバグというのはおかしいですが。
そもそも卑小なんです 人類
人間はそっくりものを忘れたり誤解したり認識すらできてなかったりというレベルであって、(根本的な不可知論などを持ち出すレベルではなく) 物事を把握するために理由だの、原因だの、何だので必死で現実をつかもうとするのですが、はっきり言って全然できないものなんです。秩序で整理しないとロクに把握できない、いや、この世の複雑さ・混沌を全く扱えないレベルの非常に小さな力しか持っていないのです。
例題: 牛乳パックに対する理解を理解してください。恐らく素人には何がどう構成されていて、どういう理由であの形やサイズをしていて、ということすら分からない。牛乳パックの専門家であっても、パックを構成する素材の分子レベルでの挙動やら、どこまで行きましょう? 構成されている粒子の数と挙動のリアルタイムでの記録とか、いや、全然無理でしょう?
そもそも正しさを追求して
厳密な結果を出そうとしての発言がどれだけあるというのか?
この時点で人間の言う事を信じるのやめませんか?
人間は今やっていること、今までやってきたことを肯定的に見ることが多いので、正しいだの何だのという言葉が飛び出るけれども、別に特段正しさを追求して出てきてはいない。肯定したいだけのことが多いですよね。
そうじゃない、と言うかもしれないが、
日常でも歴史でも正しい正しいと言いながら人間・人類は何をしてきたかな?
みんなが言う正しさを形式論理で反証したりすると何を言い始めるかな?
というのを考えるのも一手。
参考>言うことを聞かせるために正論で集団の間違いを指摘しても無駄。こちらも本気でストーリーを吹き込むべし。
補足
この文章は、言葉の力と自己認識について深く掘り下げ、自己欺瞞や「正しさ」への疑問を投げかけています。人間の思考や行動に対する批判的な視点を提供し、自己改善のためにどう進むべきかを考えさせる内容です。ここでは、言葉の力、自己認識の重要性、そして人間の認知的限界について詳しく見ていきます。
1. 言葉の力と自己認識
文章冒頭で強調されているのは、他人の言葉には耳を塞いでも、自分自身の言葉には無自覚に従ってしまうという点です。これは「自己暗示」や「自己欺瞞」の危険性を警告しています。心理学的に、私たちは自分の言葉に強い影響を受け、自己暗示をかけやすいことが知られています。特に、自分自身に対して否定的な言葉や思考を繰り返すことで、その思考が現実になりやすくなる現象があります。例えば、「自分はダメだ」と思い込むと、その思いが行動に影響を与え、実際に自信を失いがちになります。このため、「自分に騙されない」ためには、常に自分の思考や言葉に対して自問自答を繰り返し、批判的な思考を維持することが求められます。
ここで重要なのは、自己反省と自問のプロセスです。人間の思考は無意識に行われがちですが、それを意識的に振り返り、なぜそのような思考が生まれたのか、どのような背景や感情が影響しているのかを見つめ直すことが、自己認識を深める鍵となります。例えば、「こんなに大切にしていたのに…?」といった怒りや失望の感情が湧いたときに、その感情の本当のメカニズムとしての原因を探ることで、感情に振り回されずに冷静に対処できるようになります。
2. 「正しさ」の相対性
続いて、「正しさ」についての議論に入ります。文章では、人間が正しいと信じていることに対して懐疑的な視点を持ち、特に「正しさ」や「真実」を絶対的に追求することの限界を示しています。人間は自分の視点や経験から「正しい」と感じることが多いですが、その視点自体が非常に限られていることに気づくべきだとしています。人間の思考はバイアスや誤解によって歪められやすく、完全に正しい判断を下すことが難しいとされています。
「正しさを追求しても、実際にはほとんどのことが正確に理解できない」という指摘は、認知の限界や人間の理解力に対する謙虚さを教えています。特に、日常生活で「正しい」「間違っている」と主張することが多い人々に対して、この指摘は強い反省を促します。例えば、社会的な議論や政治的な意見交換において、誰もが自分の意見が正しいと信じがちですが、その背後にある偏見や感情が影響していることに気づく必要があります。
ここでの重要な教訓は、自己肯定のために正しさを主張するのではなく、もっと広い視野で物事を捉え、自己の認識の限界を自覚することです。正しさを追求する過程で、自己反省を行い、誤解や偏見を排除する努力が求められます。
3. 人間の認知的限界と自己欺瞞
次に、文章では「人間は全然正しくない」という非常に厳しい現実が語られます。ここでは、人間がいかに誤解や認識の不足に基づいて行動しているかを指摘しています。認知心理学では、人間が世界をどのように捉え、どのように誤解を生じさせるのかについて多くの研究が行われています。例えば、自己の意見や行動に対して肯定的な解釈をする「自己奉仕バイアス」や、集団の意見に流されがちな「同調性バイアス」など、さまざまな心理的メカニズムが人間の認知に影響を与えています。
また、人間の思考が常に完璧であるわけではなく、多くの誤解や認識の歪みを抱えていることを理解することは、自己改善の第一歩です。文章では、牛乳パックのような単純な事象すら完全に理解できないことを例に挙げて、人間の認知的限界を示しています。私たちがいかに小さな認識能力しか持っていないかを認識することで、過信や自己欺瞞を避けることができます。
4. 日常的な思考の再評価と批判的思考
最後に、日常生活での思考と行動に対する批判的な視点が求められます。文章では、「正しさ」や「間違い」を繰り返し強調することの無意味さを述べていますが、これは日常的な行動や判断においても常に批判的な視点を持ち続ける重要性を示唆しています。人間は、社会や文化の中で形成された「常識」に基づいて思考することが多く、その「常識」が必ずしも正しいとは限りません。批判的思考を行い、常に自分の認識を疑うことが、より真実に近づくためには欠かせません。
このように、日常的な思考においても自己反省を怠らず、他者の意見や社会的な価値観に流されることなく、自分の思考と行動を常に見つめ直すことが求められます。これにより、自己認識を深め、より豊かな人生を送ることができるでしょう。