許す って何よ
こないだ 「お願いです 許してあげてください…」と言われて、私はピンとこなかった。もちろんなかったことにしてあげるような感じというのは分かるけれども、私の脳裏に浮かんだのは:
許す許さないもないわな。 雀が電柱を許したりするのかね。
この言葉は、「許す許さない」という考えが意味をなさないということを表現しているみたい。具体的に言うと、「雀が電柱を許す」という言葉を使って、雀(小さな鳥)が電柱の存在をどうこう考えることはない、という例え。
「君が道を歩いているとき、石を見つけたとするよね。君はその石を見て『許す』とか『許さない』とか考えたりしないよね。それと同じように、雀が電柱のことを考えたり、どうするべきかを決めたりすることはないんだよ。」

「『許す』や『許さない』という考え方は、物事に対して人間が意味を持たせる時に使うものです。例えば、誰かに迷惑をかけられたときに、『許すか許さないか』を考える。でも、自然界の動物である雀は、電柱のようなものに対して、そんなことを考えるわけがない。つまり、『許す・許さない』というのは、人間の価値観や思考に基づいたものだから、動物や物に対しては成り立たないという意味です。」
私って人間じゃないかもしれない。ある意味。
曲がっている電柱にオマエは能無しだ、消えろ と言わないように、別に人間の無能を叫ぶ必要もないかな。
そんじゃ、許すとは何なのか?
「許す」というのは、誰かが自分に対してした悪いことや迷惑なことを、許容する、または受け入れる、相手が自分に対して行った行動を非難せず、その行動に対して怒ったり、復讐したりせず、受け入れること
ぐらいか。
たとえば、誰かがあなたのものを壊してしまったとき、怒る代わりに「もういいよ、大丈夫だよ」と言う。出来事を受け入れる、相手を責めない、過去のこととして扱う等。
なんでだろ?
人間関係の維持
関係が改善と修復。怒りや憎しみによる関係悪化の防止
自分の心の平安
自分の心を軽くし、過去の出来事に対して無駄に心を縛られずに済む。楽になる。
その人がどこに向かおうと笑顔で手を振れば楽になりますよね。ここで邪念を持っちゃ駄目よ。
成長や理解
相手の立場や状況を理解することで自分が成長したすることもあるな。より深い思いやりを持てるようになることも。
ただし
「許す」と言っても、必ずしも相手の行動が正当化されるわけではない。
自他の関係性や心の平穏の為、ダメージを甘受するということ。吐き違えんなよー。
許さないとはどういう行動に具体的に出るのか
「許さない」というのは、相手の行動や過ちを受け入れず、そのことについて許容しないという意思を示すことになる。許さないことには、相手を非難したり、関係を断つこと、または復讐を試みることが含まれる場合もある。
冷たい態度を取るていどの「許さない」もある。言葉や行動で、相手に対して無関心や冷淡さを示し、感情的に距離を置く。相手がしたことに対して怒りを表し、継続的にそのことを責めたり非難したりすることもある。例えば、相手があなたに迷惑をかけたことについて、何度もそのことを指摘し、許せないと繰り返す。無視や疎遠、関係の切断を試みる場合もある。復讐や報復という行動が取られることもある。単に気持ちの上での問題として相手に与えられた不快な経験を返すことや、抑止力の誇示や社会的秩序の等に行われることもある。
許さないことは、必ずしも暴力的な行動や攻撃的な行動を意味するわけではないが、感情的に距離を置いたり、関係を断つことで相手にその意思を伝えることが一般的。しかし、許さないという選択は、しばしば長期的に心の負担となったり、感情的に冷え切った状態が続いたりする可能性もあるため、注意が必要。
結局何なのか
つまりは友好的な関係を持つかどうかと言うだけの話なんだな。
「許す」か「許さない」かというのは、最終的にどのように相手との関係を築くか、または続けるかという選択の問題と言えるな。許すという行動は、相手との関係を修復したり、維持したりするための手段となり、許さないという行動は、その関係を断つ、または冷却することに繋がるってわけだ。
例えば、誰かに裏切られたり、傷つけられたりしたとき、その人を許すことで再び信頼を築くことができる場合もあるけれども、逆に許さないことで、もうその人と関わることなく、心の平穏を保つという選択もあるわけだ。
つまり、許すか許さないかは、自分がどうしてもその人との関係を続けたいのか、またはそれを断ち切りたいのかという心の持ちように関わっている。許すことによって相手との関係を深めることもできるし、許さないことによって自分の感情や心を守ることができる、というように、どちらも一つの方法であり、それは各人の選択となる。
世俗的な観点から見ると、許すことには重要な社会的、感情的、精神的な影響があり、究極的には個人の心の平穏や成長、さらには社会全体の健全な機能に関わる問題か。まあそんな世俗の問題は「飛び越えて」しまえば良いんだけれども。
世俗的な観点
世俗的な社会では、人間関係の維持や社会的な調和が重要視されるので、人々が互いに許し合うことは、いくつかの理由で重要といえるだろう。
許す サイド
人間関係の維持と回復
許すことは、紛争や誤解を解決し、関係を修復する手段となる。もし誰かが過ちを犯しても、許すことでその人との関係を再建し、協力や信頼を築くことができる場合がある。特に、職場や家庭、友情において許しは関係を保つために必要なことが多い。
社会的調和と協力
社会が円滑に機能するためには、個々の人々が過ちを許し、過去の出来事を引きずらずに共存することが重要。例えば、戦争や紛争後の和解、または犯罪者の更生のように、許しは社会全体の再建や調和を促進する手段となる。
感情的および精神的な平穏
許すことは、個人の心の平和を保つためにも重要。怒りや恨みを抱えたままでいると、心の中にストレスや負担が蓄積され、精神的な健康に悪影響を与える。許すことで、そのような負担から解放され、心が軽くなる。
許さない サイド
世俗的な観点から、許さないことの重要性は以下の点で強調される。
自己防衛の手段
許さないことは、自分自身を守るための手段となる。過ちを繰り返す相手を許すことは、同じような痛みを再び受け入れることに繋がる可能性がある。許さないことで、自分の境界を守り、再度傷つけられることを防ぐことができる。
責任を取らせるため
許さないことには、相手に責任を取らせ、過ちを反省させる意味がある。許すことが過ちを無視することになりかねない場合、許さないことで相手にその行動が許されないことを伝え、反省を促すことができる。
感情的な解放
許さないという選択をすることで、自分の怒りや失望といった感情を整理し、解放することができる。許すことによって感情を抑え込むことなく、正当な怒りを表現することが精神的な健全さを保つために重要となる場合もある。
社会的な秩序の維持
許さないことは、社会的なルールや倫理を守るためにも重要である。社会が許さない行動に対して甘くなると、同じ過ちが繰り返され、最終的には無秩序や不正義を助長することになりかねない。許さないことで、法的・倫理的な秩序を守り、社会の健全な運営に寄与することができる。
自己尊重の維持
許さないことは、自己尊重を守るためにも必要である。誰かに傷つけられたり裏切られたりした場合、それを許すことが自分を軽視することに繋がる場合がある。許さないことで、自分の価値観や尊厳を守り、自己の立場をしっかりと確立することができる。
高めの観点から(哲学的・倫理的・宗教的)
究極的な視点では、許しは単に社会的な慣習や心理的な安定を超えて、人生の意味や道徳的な成長に深く結びついていると考えられる。
道徳的・倫理的成長
許しは、個人の道徳的・倫理的な成熟にとって非常に重要とされることがある。許すことで、自己中心的な欲求や怒りを超えて、他者の立場を理解し、共感を深めることができる。これは精神的な成長や自己超越にも繋がる。
宗教的な価値
多くの宗教において「許し」は重要な教えの一つ。例えば、キリスト教では「七十七回まで許しなさい」という教えがあり、仏教でも「憎しみを抱かず、愛で満たすこと」が推奨されている。宗教的な観点では、許すことは神聖な義務として、または霊的な解放として捉えられることが多い。許しを通じて自己の魂が浄化され、最終的には内面的な平和や神との一体感に繋がるとされる。
人間の連帯と共感
許しはまた、人間全体が互いに共感し、連帯するための手段とも言える。許すことで、他者と自分との間に深い理解と愛が生まれ、共により良い世界を作り上げるという理想なくはない。許しは、人間としての根本的な優しさや思いやりを示す行為と言えなくもない。
許すとか 許さないとか どうでもいいよ派 そんなもん超越。シラン
「許す・許さないということを超越する」という考えは、非常に深い哲学的なテーマであり、物事の二元論(例えば、許す vs. 許さない)を超えて、もっと根源的で包括的な視点に立つことを意味する。
これは、許す許さないに囚われず、もっと自由で開かれた心の状態に到達することを目指す考え方である。以下はその観点についてのいくつかのアプローチである。
感情や評価を超えた「中立的な視点」
許す・許さないという選択自体が感情的な反応に基づくものである場合、その判断を超越することは、感情的な評価を一歩引いて見るということに繋がる。例えば、何か不快な出来事があった場合、その出来事に対する評価(許す・許さない)を下す前に、その出来事を「あるがまま」に観察し、反応を待つことができるかもしれない。こうすることで、感情や判断に流されず、冷静で平穏な心を保つことができる。
許す許さないなぞ、所詮感情や人間集団のコントロールのために日常的に使われるツールでしか無い。
「無評価」の境地
仏教の教えや禅においては、「無評価」や「無執着」の概念が強調される。許す・許さないという判断も、最終的には執着から来るものであるという視点である。何かを許すかどうかを決めることで心が動揺し、過去に囚われることを避けるために、評価そのものを手放すことが勧められる。つまり、物事の良し悪しや正誤を超越して「ただそれが存在する」という感覚を受け入れることができれば、許しや非許しという二元的な選択から自由になることができる。
「愛」や「共感」の視点
許すことや許さないことを超越するための道の一つは、愛や共感の視点を持つことである。許す・許さないという二元的な問題を超え、相手の立場や苦しみ、背景を深く理解し、単に許すかどうかで判断するのではなく、その人の人間としての尊厳や共感に焦点を当てることが重要である。このような視点では、相手の過ちを許すかどうかという問題自体が、あまり重要でなくなり、むしろ理解と共感が重要になってくる。
「受容」の態度
許す・許さないという判断を超越することには、全てを受け入れ、あるがままに存在を許容するという態度が含まれる。この「受容」の態度は、仏教の「空(くう)」の思想や、東洋哲学の多くの教えに通じるものであり、すべてのものが無常であり、どんな状況も永遠ではないという理解に基づいている。したがって、許すことや許さないことを問題にすること自体が、変わりゆく現象の一部であるという視点に立つとき、感情的な判断を超えて、理性や是非の手によることもなく、そのまま受け入れることが可能となる。
「自由」への到達
許す・許さないという選択に囚われることを超越することで、より自由な状態に至るとも言える。許すことや許さないことに心を縛られず、その場その場で直感的に行動することができるようになる。これは、自由な精神の状態に到達するための一歩であり、この自由さは、他人の行動に左右されることなく、自分自身の選択や行動を確立することに繋がる。
「超越的な理解」
さらに深いレベルでは、許しや非許しがどちらも単なる人間の観念に過ぎないことを理解することが超越の一歩である。すべての出来事や行動は、物理的・心理的な因果関係に基づいており、誰かが過ちを犯したとしても、それは必然的な結果として起こったことだと理解することができる。この視点では、許す・許さないという問題は、もはや意味を持たなくなり、すべての行動はただの「現象」に過ぎないと感じることができる。
人間を過大視しすぎ
別に、人間も生物もその他もやたら取り立てて分けて考えなければならないというわけでもないでしょう。社会に生きているのである程度区別して、区別している体をしていればいいだけのどうでも良いことです。許す許さないで悩むこと事態が人生の無駄です。ムダ。










