意味不明 ナンセンス 理解不能 不思議 発想 と 戯れて50年経ったのでまとめてみた
吾妻ひでおのカオスノート(あれ、別のかも)を読んでいて、「なんでナンセンスギャグなんか描いているんだろ」というフレーズが引っかかっていた。なんで描いてたんですかね。御冥福。
面白い、ジョーク、冗談って何? という問いは昔からあるけれども、面白いものを追求していると、定型の面白さでは食いたらなくなってくるなと個人的には思う。(そう言いながら定番の笑いも大量摂取しているが)
面白いの大好き、しかし…
久しぶりにM-1 (2024) を見ていた。全部見れなかったけれどもしっかり笑い転げた(文字通り転げた) 久しぶりに風邪を引いて咳をしすぎて腹筋が筋肉痛になっていてWパンチで死にそうになったがなかなか Happy だ。うまいなー では笑い転げるまで行かない(もちろんすごく面白い)。よく構成された配分のうまーーい漫才もなかなか。バッチリ面白い。ボケが「ホンモノ」でその人の自然が爆発しているのはたまらなく面白い。家族全員で泣きながら突っ込み倒すぐらい面白かった。
ナンセンスギャグ漫画は、読者に「無意味さ」や「不条理」を通じて笑いを提供しているといえなくもない。(ここで論点が面白いと笑いですり替わっている気もする) でもこのありきたりな説明に私自身全く同意できない。なんで書いたのかもサッパリ分からない。
このジャンルの漫画は、通常の論理や常識を無視し、突拍子もない展開やキャラクターの行動を描くことで、読者に新鮮な驚きをもたらしているとは思う。下手をすると、もう「面白くなくてもよいのではないか?」とすら私は思う時がある。新しいアイデアが見たい。
イミフ
どうやったってこれは面白い、そういうのを沢山見てる中で、ふと横道に反れたくなる。いつも歩いている道を「ふっ」と反れたくなる。擦り切れるほどに通り過ぎている日常に紫茶色の地味なワープゲートみたいな空間の裂け目ができて、全く別次元からイミフな生命体が「すみませんねこんにちはどうも」と言いながら私の電気ポットを勝手に使ってカップそばにお湯を注いでいるみたいなことが起こったらどうだろうと思う。※イミフ:意味不明![[block]](https://abstracttoolbox.com/wordpress/wp-content/uploads/0f5cb9dfda860073f0f25cf653eecb09-300x300.jpg)
何気もない日常が結構、かなり面白い。べつに味の濃い楽しみでないと満足できない性格じゃない。ごく普通と思う日常の中には意外と意味不明な謎の言動を見出したりできる。大好物だ。
大冒険や珍奇なもの以外には興味がありませんという人間でもない(両方好きだが)。スーパーに買い出しに行って皿を洗って飯作って食っているだけ(何も起こらない)でも全く不満はない。無いつもりだけれども、今握りしめている使い捨ての竹の割り箸から何かイミフなことを起こせないかと思ってしまう。なんだ?
逃避?
千度繰り返される日常になにか物凄く微妙なストレスを感じてそれから逃げ出そうとしてるんだろうか? 面白いことをしようとするときに、面白くなければならないという束縛からすら逸脱しようというのか? 何がしたいのか? 電車に乗って線路から逸脱したいのか? 意味がわからんぞ?
うーん、逃避だろうか? でも何もしたくないわけじゃない。現実の問題から逃げたいわけじゃない。現実から解き放たれるだけならナンマイダナンマイダナンマイダナンマイダと唱えながら風呂掃除をするなり、ゆーーーーっくり いーーーーーーーーーーーーーーち にーーーーーーーーーーい さーーーーーーーーーーーーーーんと数を数えながら深呼吸するなり、経験値を9999999にするなり、鬼弾幕マゾゲーにはまり込んで仕事を放り投げるなり、餃子と酒なり、忘我郷に至る道はいくらでもある。これじゃない。
現実から逃げるというよりは、現実の枠を外してみて遊んでいるのかもしれない。思考実験のユルい版?
いつの間にかできてる…
書き手/描き手からすると、いつもはある程度条件に縛られて書いている。最低限分かるようにだとか、ある程度面白さを入れてとか、そんなのがあるので、たまには自由にやるか!! という気持ちも分からなくもない。
でもこれを満たすためならば、落書き帳とペンでなにかやってみればいいだけの話。自由にやりたいだけでは謎なものを作り出す行動には不十分だ。![[block]](https://abstracttoolbox.com/wordpress/wp-content/uploads/3223304191b5d06101db9809a717edc5-300x300.jpg)
私が書いた昔の原稿を読むと、執筆時には自分で分かっていなかったはずのことをすでに書いていたりする。忘れているわけじゃないですよ。長年疑問に思っていて少しずつ掘り下げてやっと分かった!! でも実は昔の自分が字面の上ではもう書いていたんですよ。なんだこれ。
研究方法について社会学者(滅茶苦茶に腰が低くて真面目だけど面白い人)と議論していたときには、「研究するマシンとしての自分」について理解するという話をしていた(こんなの大学院生に言っても分からんだろう。結構とんがってるな!!)。
ああ、こういう発想に至る人も他にいるんだなと少し嬉しいなと思った。何かを生み出す行動をする人、表現者、研究者、いろいろな人がこのような発送を持っているんだろうか?
創作するときには自分が意図しないものを生み出している。ナンセンスギャグを作るときにも同様のことが行われているのではないか。自分が作り出したものに驚きを見出しているのではないか。意識できるギリギリ、もしくはその外に足を踏み込むことではないのか?
最も身近な自分自身から、意味不明なものが湧き出ている、時にそれに気がつくことすらできない(これはインスピレーションや霊感という言葉よりも外にある。だって感じてないもん)。作者が意識のギリギリ、もしくはその外に足を踏み込むことで、予測不可能な展開やユーモアが生まれている事自体の不思議に触れているのかもしれない。
そんなことしてるか? してるのか?!
ある日 NHK-BS で中国のトラックドライバー 3組 (ベテラン、新米、家族経営) で目的地まで荷物を届けるときの様子のドキュメンタリーをやっていた。
ベテランはやはり検問や道路事情に詳しく、余裕の表情だ。新米はもう目も当てられないが、家族3人夫婦と子供は生活しながら(もちろん夫婦喧嘩しながら、家事をしながら)ブーブー言いながら走っていた。
いい加減にVHS(ビデオテープ)なんて処分しないとと色々と出てきた。昔からドキュメンタリーを見るのが好きだったんだな。ナショナルジオグラフィックだけには入会しないぞ。人生が終わってしまう。ドキュメンタリー番組で。
しかしビデオの内容がなんかコンテナ輸送だの、トラック業界だのが多いな、とブツブツ言っていた所、肩越しに相方が、
あなた、しょっちゅうトラックの番組見ているわよ
そうか? それから自分の行動をチェックするように心がけてみると、やっぱり物流関連の番組をやっているとずっと見ているし、電車で上司と移動しているときにもJR貨物が通りかかると上司をガン無視して貨物車両を見ているし、でも全く自覚がなかった。
自覚症状なし。30年ぐらい。自覚があったら今の業界ではなく物流業界を選んでいたかもしれない。
だからといって自己発見とか自己探求のために意味不明なものを追い求めているわけでもない。結果的に見つけてしまうが。
風刺のときにも使うが
したり顔で「これがただしいんですよー」「とうぜんですよー」「社会的意義があるんですよー」という話にイラッときたときに、ナンセンスな表現で既存の価値観をぶっ壊してみたくなるときはある。
とてもまともな意義があるとは思えないものを、バカバカしい点を浮き彫りにできると言えばそうなんだけれども、これがメインの動機かと言われるとたぶんサイドビジネスになるかならんかぐらいだと思う。
洞察のため?
物事の本質を見抜こうとするときには、よくある価値観や、自分が毎日浸ってしまっている考えなどが邪魔になるときはある。枠組みから解体してぶっ壊す・取り払うという意味では↑の風刺の話と近いが、重要度的には高いか。でも洞察の主兵装かというと違う気がする。
洞察のためにはよくある考えを取り払うのは必要だけど、物事をじんわりと見据えたり、色々考えたうえでそのモジャモジャしたものを取り払って核の部分だけ取り出したり、そもそも人類積年の問題に戻ってみたり、理念的な問題を現実的な面から考えたり、その逆をやったり、物事を見抜こうとしている自分自身の行動を点検したり、もちょっと真面目な武器を使っている気がする。
遊んでるのか?
意味不明なものと戯れているときには、なにかに満足しているとは思う。生物として社会生活を送る人間として必須の日常的な行動とは言えないから、ナンセンスな表現はある意味 遊びに分類される面があるかとは思う。
カイヨワによる遊びの分類「競争」「偶然」「模倣」「めまい」でいうと めまいなんだろうか。
私は即興的な言葉遊びをしていることも多いし、ナンセンスの追求遊びに根を張っているのはあまり間違いでもないかなと思う。自分と相手の意外性のほじくり合いをしている感じ。![[block]](https://abstracttoolbox.com/wordpress/wp-content/uploads/52f735781a611afb54ea4818accb2162-300x300.jpg)
わけのわからない表現で人をびっくりさせるためにぼんやり考えていることも多いから、びっくりすること自体私は好きなようだ。時々人倫に反するようなことを口にしてみたくなるのも同じ理由からか?
麻雀をしているときに各人の人間性が出ている所を見ているときに感じる楽しさと共通するものもあるので、口から出てきた意味不明なものだけではなくて、相手の仕組みや、発想自体が意外性を楽しんでるみたいだ。何食べたらあんな不思議なこと考えつくんでしょうね。
意味不明がある日、突然真面目な方向を向く
「意味わからん!!」とはしゃぎながらギリギリ理解できるかどうかの筋道が立たない不条理なものを見つけている自分を見ていると、
自分の理解の範囲を超えたい 広げたい
のではないか、普通の理解を超えた幻術的な何かを欲しているのを感じる時がある。別にオカルトというのではなくて、ものの見方を変えるだけでとんでもないパワーを得ようとするものだ。普通の「ものの見方を変える」とは出力がケタ違いだ。
遊びの範疇を超えて、この世の中の見方、この世の中の理解そのものをごっそり入れ替えてみたい、とんでもなく広げたい、ずっと拘泥してきた私やみんなの理解している世界を全く別のものとして捉えたい・感じたい、途方もない経験したい、そんな感じだ。
今までの理解の中であーだこーだ言いながら、ブツブツ文句を言いながら、汗水を垂らしながらやったことを
全部飛び越えてみたくなる
日常の経験を超えた現象や、説明が困難な事象 「不思議」はこの超越・跳躍の素だ。
付録: 意味不明 ナンセンス 不思議 に出会うためのリスト
異なる文化や社会における信仰や儀式、神話にふれる。代表的。
多様な価値観や世界観にふれる(分野違い、境遇の違いだけでも無数にある)
過去の出来事や人物 (数十年前でも結構違う)
※ただし、自分の理解や 現在よくある理解というのを捨てて、相手の理解はなんだろうかと探らないと効果が薄い。理解や発想の違いを見つけると吉。
公表されていないもの 個人的記録
書籍でも雑誌でも、ある程度は「よそ行きの服」を着ている文章なので、ある意味ヤバいことや実情はとことん取捨選択されてしまっている。なかなか手に入れるのは難しい。
日本語というか、標準的な言語の枠を外れる
その集団集団、家庭家庭で結構意味分からんこと言って遊んでると思うんですけれどもそうではないですか?
シュールレアリスムの自動筆記(オートマティズム)
20世紀初頭にフランスの詩人アンドレ・ブルトンとフィリップ・スーポーによって始められた技法
ものすごい速さで書くことにより何かを取り出そうとする試み。
夢や幻覚、現実と夢が交錯するようなシュルレアリスム は昔から私のお気に入りです。
ジャン・コクトー『オルフェの遺言:私に何故と問い給うな』
から私は入りました。(エリック・サティの曲を集めていたときにコクトーの名前が出てきたんだな)
当時の映画批評雑誌を見ていても「見る人が好きに解釈する作品」とあり、ベタベタ意味を貼り付けた作品でなかったんだな、と思いますね。オチとかスジとかそんなもの無いですよ。現実の枠を超えた体験を提供して想像力を刺激する何か?
フリーハンドドローイング
何も考えずに自由に絵を描くことで、無意識のイメージや感情を表現
即興演技
スジなしで小芝居でどうぞ
先日学生アシスタントが受講生にカードの配り方が愛想ないと文句を言われてブツブツ文句を言っていた。50を超えた研究者二人、小芝居を始めた。一応学生アシスタントを元気づけるためではある。
学部長:「あ、どうもーーーー」「出席してありがとうねーーー(クソデカボイス)」
私:「どうです、この出席カード、6色ありますねん、カラーバリエーション、どれにしますぅーーー?」
学部長「今日出席した人、ほーーんとにお得よーーーー!!!」
何やってんだ。多分通販番組のパクリ。完全に即興です。
とことん自分の感覚と書いたもののズレを無くすように書く。
書けば書くほどそれていく。禅問答に出てくるよね。
感覚そのものを当てるかのような表現を探す工程自体で色々不思議なもの見つかる。
苦行・成長と加齢
身体的・精神的変化でよくわからないものに遭遇しては理解を変えていくのはよくあること。
生きている事自体色々不思議なものがありますね。苦しいけど。そんなもんそんなもん。
夢日記
無意識的な表現を引き出す方法として有名か。書くのが意外と難しい。
意味不明な会話
話の内容が無関係だったり、突飛な方向に進む。ありきたりな意味を貼り付けないのがポイントか。
非論理性を磨く
あえて理屈の通らない話をしてみる
言葉遊び
言葉の意味や響き、言葉の音や、その言葉が生む副次的効果を使った遊び。
現実世界の常識を無視
物理的制約に反して考えるとどうなるかとか
1=0だったら 1=1億 だから 1円と1億円交換しろだとか
あえて四つ足で走ってみるとか 四足走行
あえて動物として人間を捉え直すとか
スペクトラム・グラデーション
あれとこれの中間物を考える。
豆腐——豆腐ハンバーグ—ハンバーグ
これ途中どうなってんの?
ちゃんと分かってないことを一生懸命話してみる
変な間違いが出てきて面白いですよね
反転 歪み 取り替え 拡大 縮小
まあ思考実験の範囲。
異常な執着
これは他人の異常な執着を見るほうが簡単。自分の普通が執着であることを見つけるのは難しいので。何にしろ普通ではない発想がそこに。
質問に対しありきたりな解答をスキップして深めの答えを出す
質問から全く関連のない答えをする
あったりまえのこと言ってても仕方がないものな。
不完全な説明や解答
珍回答も面白いですが、何かの説明の一部だけ読んで前後を考えてみるとか。
勝手に補足説明をする
こないだ外国人の人二人が掃除をしていたんだけれども、上司と部下。どうも部下は叱られながら掃除をしているので、それを見ていた私達は勝手に日本語吹き替えを始めていたのだった(何語かサッパリわからなかったので)
どうとでも取れる質問に答えてみる
禅問答ですよ。
逆に、
答えるのが難しい事柄の代わりに、それに対する質問を作る
これは教えるときに基本技法でもある。つまり、答えをくどくど説明するよりも、非常に良い質問を与えるってわけ。
視覚的矛盾
見た目の上で明らかに矛盾するものや、物事が通常の視覚的ルールに従わない。
ホワイトカレーは頭がバグりました。
パロディ的な要素
漫画家はある次期から、パロディ元を読者が知らなくても楽しめるものだということに気がついたらしい。不適切な話の挿入の感覚を呼ぶのか。知っている文化的なパターンや規範を模倣しつつ、意図的にそれを崩して笑いを取るのか。
レトリックにも繋がる話。
予想外の行動
突然非現実的になる
基本かな。
無意味なメタファーや比喩
よくわからない比喩が使われ、その意味を探し続けても結局無意味な結論に至るなど。
無駄な詳細の挿入
構成されたものという足かせからの開放。不必要な詳細が挿入され、意味が分からないまま進行する。意味ぶっ壊しにかかってるのに意味が分かるとかどうとかなんのことかな。
荒唐無稽 でたらめ
よくある価値づけや構成を使わない。
異常な繰り返しや規模
普通人間が嫌がりますからね
おまけ
ダダイズム(Dadaism)意味不明で無秩序、理不尽な要素を取り入れて表現を行う。
シュール(Surreal)現実とはかけ離れた非現実的な世界や状況を描くスタイル
アブサード(Absurd)矛盾や不条理を強調するスタイル
ブラックユーモア(Black Humor)シリアスで不謹慎なテーマを扱う
メタユーモア(Meta-Humor)ユーモアそのものを対象にしたユーモア。自己言及的なことも。
トーク番組で わざと会話のタイミングずらされ続けてるのとか自体が面白くて、話の内容も面白いんだけど…
メタフィクション(Metafiction)自己言及的な小説や映画で、物語の中で「物語」を取り扱いながら現実と虚構の境界を曖昧にする。
おまけ2 キャラクター が 勝手に動く
漫画や小説を書く人はキャラクターを決めると勝手に動くという話をするが、これは無意識と言うよりはなにか別のものではないかな
作家がキャラクターを詳細に設定し、そのキャラクターの背景や性格を深く理解すると、キャラクターが独立した存在として動き始めることがある。これは、キャラクターが一種の「仮想人格」として機能し、作家の意識とは別の視点や行動を取るようになる。よくある話。












