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【人間関係】好きの反対は、やはり嫌いであってる。ちなみに無関心の反対は当たり前になる(詳細付)

まとめ:

「好きの反対は嫌いで、十分に嫌い落ち着いたときには無関心になる。」

向きを反対にしてもこの文はまだ正しい。

「嫌いの反対は好きで、十分に好いて落ち着くと当たり前になる。」

好き・嫌いというのは自分の内側、外側に向いた力を受けている状態であり、その位置は無関係である。当たり前・無関心は共に力を受けなくなっている状態を指しているが、範囲の内側・外側に位置しているという違いがある。

 

「好きの反対は嫌いではなく、無関心である。」

この一文、言い得て妙と思っていたのだがなんとなく違和感が残っていた。確かに「距離」の面から考えると、好きから嫌いよりは、好きから無関心の方が遠く感じる。

しかし何故好きと嫌いと無関心なのか。この三つの言葉には対称性が欠けているではないか。好きと嫌いは対称性があるが、無関心と対になるものもあるべきではないだろうか。

ここでいう無関心とは、自分の「範囲」の外側にあって存在が希薄になるものを指しているのではないかと思う。そうだとすれば無関心と対になるのは恐らく、自分の「範囲」の内にあって当たり前になり、意識されることがなくなったものではないだろうか。ここではこれを「当たり前のもの」と表しておく。

はて、好き嫌いということを考える時には、一個人の「範囲」はその身体の内側と捕らえるよりも、自分の一部分と思っている物事や人を含めた方が理解しやすい。

自分の範囲の中に嫌なものがあれば何とかそれを外に出そうとし、好きなものがあれば内に引き込もうとする。好き嫌いにも度合いと種類があり、それに従って人や物事は自分の内外のしかるべき場所へ移ろうとする。

ただ、力が働けばものが動くとは限らず、嫌なものにも関わらず内側に居続けるもの、好きなのに内側に入ってこないもの、嫌いで外にあるが気にならないほど遠くに行ってくれないもの、好きで内にあるが適切な距離に来ていないものなどもある。

位置と力は密接な関係があるが、別のものである。

この四つのものの関係を整理すると、好き・嫌いというのは自分の内側、外側に向いた力を受けている状態であり、その位置は無関係である。当たり前・無関心は共に力を受けなくなっている状態を指しているが、範囲の内側・外側に位置しているという違いあるということだろう。

無関心とは、嫌いなものの落ち着く場である。冒頭の一文を正確に言いなおすと、こうなる。

「好きの反対は嫌いで、十分に嫌い落ち着いたときには無関心になる。」

向きを反対にしてもこの文はまだ正しい。

「嫌いの反対は好きで、十分に好いて落ち着くと当たり前になる。」

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