【分かり易さの罠】研究者は分かり易く解説すべき、に対する反論

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■結論: 研究者には研究者の本分があるから説明能力は補助的なものに留まる。その度合は分野による。

1. 研究者に限らず、何でもかんでも分かり易く表現することが可能なわけではない。それは無理であり、盲信である。

2. 部分的には、研究者も分かり易く表現することが望ましい。しかし、それはどの分野かによってその度合は異なる。

3. 研究者が解説に使える労力は、解説者よりも制限されていると考えるべき。それぞれの職分というものがある。研究者の言葉が分かりづらいのは、彼らの職業的理由から来ているものである。分かり易く伝達するだけが、言葉の機能ではない。確かな知識を生む難しい言葉も必要である。解説者の言葉の源となっているのは、これらの硬くて無味乾燥に見える記述なのだから。研究者は知識を生み出すことに言葉を使い、その翻訳は高コストであるか、不完全な結果に終わるのがしばしばである。

 

■研究者の解説能力は、補助的なものである

研究者には研究者の、解説者には解説者の本分がある。

情報を作り出す側の仕事、というものがある。これは、情報を伝達したり、情報を受ける側とはしなければならないこと、負荷になることが違う。苦労する点、力をかける点などが違うのだ。研究者は研究者で必死になってやる《ある特有の部分》があるのだ。

はて、分かり易く表現することが錦の御旗のように掲げられる昨今ではあるが、分かり易く表現することは分かり易く表現する職業の人によって主になされるべきことだ。解説者はしっかり解説者の仕事をしなければならない。その重荷を軽々しく研究者の方に投げるのは間違いだ。

研究者が解説の力をある程度持つことは推奨されるべきことであるとは思う。分かり易く表現できればベターであることぐらいは百も承知だ。しかしながら、一人の人間が割ける力というのは有限であり、各職業でやるべきことというのは山のようにあることは変わらず、研究者だけが力が余っていて解説の仕事を十分にこなせるなどということはない。なによりも、解説者であるあまりに研究者としての力を失っては元も子もない。研究者が研究者たる本分を失うようでは意味が無い。

ただ、研究者が解説する際に最も重要な役割を果たすとすれば、研究の際に出てくるフォーマルな内容を生み出すもととなる直感的事項について、誤解を恐れずに開示することである。これは解説者には発掘しにくい内容であるからだ。

解説者の方もろくにわからずに書いている人間が少なからずおり、彼らに対して十分に研究して書けと言う研究者もいるが、これにも限度がある。理由は同様である。

 

■どんな対象でも、分かり易く解説できると考える事自体も間違い

研究者が解説者を兼ねることはあるが、それは分野により難易度が異なる。

どんなに噛み砕いても予備知識・経験のない人間には結局ろくにわからない分野というものも存在するので、このような分野の研究者に対して分かり易く解説する能力がないなどと詰め寄るのは全くもって間違いだ。そのような分野として、素粒子物理や数学などが挙げられる。

そもそも学問は知れば分かるという分野のみで出来ているのではない。どちらかと言うと「プレイして初めて分かる」という、体育的要素を持つ分野もある。陸水練を如何に手ほどきしても、完全どころかまともな理解にも至らない。分かった気にさせる魔法をかけるのがせいぜいのものである。

 

■研究者にとっての言葉と、解説者・解説の読者にとっての言葉は異なる

「分かり易く分かり易く」と呪文のように唱える人間は、一つ大きな思い違いをしているのではないか。その思い違いとは、言葉はただ伝達手段である、という思い込みである。

分かり易い言葉による表現というのは、その受け手のニーズしか見ていない。知識を生み出す人間にとっては、分かり易い言葉というのは時として役に立たないものである。

研究にとって言葉は伝達手段でももちろんあるが、何よりも知識を構築するためのものである。

研究のための言葉の使用法では、議論が瓦解しないということが優先される。直感的理解というのは二の次三の次である。知識の構築は建造物の構築に似ている面がある。基礎を固め、時に補助的な足場を組み、一つづつ組み上げる。無数の要素を確かに組み上げるために、地味で単調な構造が繰り返されることもあるし、硬くて面白みのない部分がある。素人のカンではサッパリ分からない注意点や観点やテクニックは当たり前のようにある。

研究つまり厄介な問題に取り組むには、言葉を徹底的に鍛え直す…しっかりとした定義に基づいた用語、それぞれの関係等を整理し、その上で研究の枠組みの中で許された推論を繰り返す。このようにあやふやな対象を確かに捉える言葉、推論を重ねても議論が崩壊しないような言葉というのは、日常的な分かり易さをしばしば持たない。

この堅い言葉から柔らかい言葉への翻訳(*単純な翻訳だけを意味しているのではなく、柔らかい言葉を用いた説明をなすということ)はコストがかかるだけではなく、場合によっては内容を損なわずにこれを行うことが不可能な場合もある。研究者も自分の仕事に対する「コストの感覚」がある。効率よく仕事をこなす必要があるのはどの職業でも変わらないだろう。手っ取り早く直感でわかるような言葉だけで済むのであれば、そんなことはとっくにやっている。新たな知識を生み出すためには、分かり易さなどというコストの高いものに手を出している暇が無いことはしばしばである。

下世話に露骨に言えば、研究者は確かな知識を生み出すのが商売であり、大衆受けする読みやすくて分かりやすくて売れる文章を生むのは研究者の(主たる)商売ではない。同じ対象について書いたものであっても、その言葉は全く目的を異にしているものなのである。

分かり易い日常的な言葉、日常的な言葉の用い方(例えば、似たような言葉は同じような意味として捉える、言葉のもつイメージにしたがって連想するなど)を用いて推論を繰り返すと、毎回の推論のあやふやさが積み重なり、その結果は目も当てられないようなグズグズのゴミクズになる。微妙な問題になるほど、日常的な感覚や常識が通用しない対象になればなるほど、日常的な言葉や日常的な結論の導き方は力を失う。(最初に出くわすこの手の問題は、おそらく分数の計算の問題だろう。カンでやっても間違えるだけだ。)

 

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